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生活

その男、凶暴につき

8月になっていた。昨日書いたブログは「わわわ!まだ今月一回しか更新してないじゃん!」と思って、慌てて時計とにらめっこしながら、空っぽの頭から絞り出した文章なので、なんだか再読しててムカつく気分になる。ダメだ、やっぱりなんか書いていないと。7月(特にここ2週間)の体調やら精神の具合があんまり良くなかったのはこのことが原因だったのか!と膝を打つ。誰に読ませているのか意図が全く見えない文章を打つのは楽しいし、ストレス発散にもなる。後のストレス発散法というのは、

「100円ショップに行って収納道具を見て『これを有効活用することができれば部屋が無印良品みたいになるかな』と淡い理想を抱きながらそのまま何も買わず帰る」

ブックオフに行って500円と280円の棚を1時間かけて物色し、目線を一番下の棚から横の一番上の棚に移動した時に「うおっ」という立ちくらみを発生させる」

というものなので、それに比べれば遥かに健康的だし生産的だったりする。


その男、凶暴につき」を久しぶりに見直した。最後に見たのは大学三年生の時だった気がする。

ビートたけし扮する主人公の刑事・我妻は、何を考えているのか分からない。常に「怒り」を思わせるオーラがまとわりついているが、心を許した相手には冗談を言ってみたり、仕事終わりに酒を飲みに行ったりしている。しかしホームレスを暴行した中学生に暴力で出頭を強制したり、ヤクの売人を延々とトイレでビンタしたりするなど、明らかに行き過ぎた、歪んだ正義感で行動している。

そして警察をクビになった瞬間、我妻からは一切台詞がなくなる。台詞だけではない。表情もなくなる。この映画からは「一体なぜこの人物がそのときこの行動をとったか」という描写が極力排除してあって、そのことが「機械的である」という雰囲気を漂わせている。静かな暴力だけが支配する狂った世界だ。我妻は警察をクビになった瞬間、人間ではなくなる。唯一の行動原理であった歪んだ正義感がフッと消え去り、ダガが外れ、本能の赴くままに行動する。それはまるで子どもに戻ったといってもいい(バッティングセンターで汗を流す、草野球をする、など)。

そして我妻と対する殺し屋・清弘も似たような行動をとる。親分のためならば簡単に人を殺す「忠誠心」で行動していたが、「お前の顔はもう見たくない」と親分から殴られ絶縁されたことで、行動原理が消え去る。地面に座り込みながら黙々と銃を組み立てる後ろ姿は、積み木遊びに興じる子どものように映った。

その共通線が一つに交わる瞬間、一種の絆のようなものが見えた。違う星の下に生まれた異兄弟が薄暗い倉庫で静かに、機械的に殺し合いに興じる。もはやそこには正義感や忠誠心のような理屈は存在せず、単純に「こいつを殺す」というショートカットしまくった子どもの思考だけしか残っていない。

その男、凶暴につき [DVD]

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